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京都にて④ 太極殿
京都シリーズも第4回です。今回は宿泊を西陣にとりまして、かつての朱雀大路である千本通を歩いて “太極殿” 跡を写真に納める予定でした。講義や講演に使うためです。
千本丸太町の交差点の南と北にそれぞれ碑があります。このあたりは平安宮の中心である朝堂院があったところで、政治の中心であり、国家的な式典および儀礼を行う場所です。朝堂院の奥、北方面に太極殿があり、ここで天皇関係の儀礼があったようです。この交差点に立って南を向くと、南に向かって緩やかですが下っています。当時はかなり遠くまで見通せたのでしょうね。
交差点を北に過ぎて左に入ると、公園があります。普通に子供が遊んでいますが、この中に太極殿碑があります。生活の中に歴史があります。
碑の右にある古い石版の説明には明治28年とありました。昔は周りの木がもっと繁っていたと思います。刻字に迫力があり、遺物の趣があります。
平安京の中心が太極殿であり、ここに天皇は南に向かって座します。これを「天子南面」といいます。ここを中央として前面の南を朱雀、後方の北を玄武、左の東を青龍、右の西を白虎が守ります。現在も左京区が東、右京区が西ですね。また、前回コラムの五行ですが、「行」の字義が「四」つ角の交差点を意味します。中央をいれて「五」になります。
太極殿跡の説明板「源氏物語ゆかりの地」によると、『源氏物語』「賢木」でも朱雀帝が斎󠄂宮(後の秋好中宮)に別れの御櫛を挿す描写がある、とあります。
しかし、1177年の大火後は再建されなかったとのこと。これは西方面の水害による衰退と朱雀大路の位置が関係しそうです。現代も京都の中心を南北に貫く通りといえば、当時の朱雀大路、現在の千本通よりも東にある烏丸通か堀川通という感じですね。実質的に御所が中心になったと思います。
千本通の西、丸太町通の北に、この碑がありました。写真の左が北、右が南です。朱雀大路が真っ直ぐに南を向いていることを示すにしては、北に ”午” が来ているし、なんだろうかと思いましたが、これは日時計でした。影が辰から巳の刻にあるので9時前に撮ったわけです。平安京の正確な測量は、現代においても驚く精度ですが、日時計、太陽の計測によって東西を計ったとする説があります。それで日時計を設置したのかどうかは定かではありませんが、古代人の英知を思いながら、烏丸御池まで歩きました。